コスメの歴史(3)
明治になると、政府は皇族や華族に対して、お歯黒・引眉禁止令を出しました。
しかし、どちらも人々の中に深く根付いていた風習の為、当初はなかなか徹底されませんでした。
禁止令より3年後に、皇后自らが率先して模範を示すことで、ようやく華族の女性達も、お歯黒・引眉をやめることになったのだそうです。
これが庶民にも少しずつに浸透していき、引眉の風習は明治初期には完全に廃れたのですが、お歯黒の習慣の方は、なぜか大正時代まで残っていました。
高齢の女性の中には、昭和に至るまでお歯黒を守り続けた人もいたほどです。
また、明治時代には鉛白粉の害が論じられるようになりました。
1900年になると、国産の無鉛白粉が発売されましたが、これまでの白粉と同じく、やはり人間にとって害のあるものだったのです。
しかし、鉛白粉は伸びや突きに非常に優れたものだったので、害があることが知られていたにもかかわらず、人々は好んで使用していました。
そして、昭和の初期まで使われ続けていたのです。
大正時代になると、和風の化粧をベースにして、西洋の頬紅を使ったり、耳元に紅を入れるなどの和洋折衷の化粧が流行ることとなりました。
これまで白だけだった白粉も、ベージュや赤みを帯びたものが出てくるようになりました。
外国の文化も取り入れ、国を超えたお洒落を楽しんでいたこの時代、白粉の色が新たに開発されたことで、女性はさらに化粧に楽しみを見出していたことでしょう。
日本で本格的に西洋風の化粧が行われたのは、関東大震災の後のことでした。
モダンガールと呼ばれた一部の女性達の間に、アイシャドウや唇全体に塗った口紅といった、新しい化粧が広がりました。
そして、ショートヘアーやミニスカートなどの新しい文化と共に、これまでの日本女性のイメージを改革していったのです。
しかし、改革に非難は付きもの。
文化に対して保守的な人々の中には、西洋に染まっていくことを良く思わない人もいたようです。
Powered by
Movable Type 4.25