コスメの歴史(2) :コスメとは、単なる化粧ではなく体全体をきれいにすること

コスメの歴史(2)

中世ヨーロッパの社会では、顔に蜜蝋を塗り、その上から白粉を叩くという化粧方法が大変流行しました。

この化粧が始まったのは、イギリスの女王エリザベス1世がきっかけとなっており、戴冠式などの教会の儀式で、聖性を高める目的の為に行われました。

そして次第に、貴族達の間でも、それを取り入れられるようになりました。

しかしこの化粧法には、蝋が溶けやすいという問題点があり、化粧が崩れるのを避ける為に、冬の凍えそうな日でも暖房に近づくことができなかったのだそうです。


当時の白粉は、白鉛や不純物が含まれていたので、皮膚にシミ(鉛中毒)ができやすく、これを誤魔化す為に、付けボクロが貴族の間で大流行しました。

美しさや華やかさを競う、当時の社交界のこと、美しさを保つ為の労力は、きっと並大抵のものではなかったのでしょう。


さて、日本の有名な化粧としては、古代から大正時代に至るまで、お歯黒と呼ばれる歯を黒く塗る化粧が行われていました。

平安時代には男性もお歯黒をすることがありましたが、江戸時代にはお歯黒は既婚女性の習慣となっていました。

口紅を唇の中心につけることでおちょぼ口に見せ、結納のすんだ女性にはお歯黒、子が生まれた女性には引眉を行うという風習が根付いていたのです。

口紅は紅花を原料にしたものが使われていましたが、とても高価な品とされていた為、口紅を塗っている人は、それだけで裕福な身分を表していたのだと思われます。


また、江戸時代にはメタリックグリーンのツヤを持った口紅「笹色紅」が、江戸や京都などの都会の女性達の間で流行りました。

江戸時代の化粧は、肌に塗るのは白粉のみで、これを濃淡をつけて塗ることで、質感の違いや微妙な立体感を生み出していたのですが、これはとても手間と時間の掛かる仕事だったそうです。

当時の日本の白粉は、液状の水白粉だったのですが、西洋と同じく主な成分に鉛を含んでいた為、長く使い続けると「鉛中毒」による死亡者が多くみられ、戦後に規制された後にも、このような死者は後を絶たなかったといわれています。